バドミントン日本代表から日本ユニシスの発信者へ

元バドミントン五輪選手・栗原文音さんが広報部員として挑むセカンドキャリア

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スポーツ選手には必ず引退の時がやってくるが、自身の「セカンドキャリア」について現役時代から向き合える選手は少ないという。自らのセカンドキャリアと向き合う元アスリートの一人が栗原文音さんだ。9歳からバドミントンに打ち込み、日本ユニシス実業団バドミントン部女子チーム1期生として入社後、元日本代表として五輪出場も経験した。2020年3月の現役引退後、同年4月から日本ユニシス広報部PR室に在籍し、より一層「日本ユニシス実業団バドミントン部の選手と社員、社会をつなぐ活動がしたい」と意欲を見せる。2022年4月に「BIPROGY」へと変わる自社を世の中に広く知ってもらうための取り組みにもまい進中だ。選手時代の日本ユニシス社員との交流経験などを踏まえ、引退の葛藤からどのように未来を描き出したのか。10月に開催された「第28回豊洲フェスタ」での講演もご紹介しつつ、広報部員として目標を少しずつ見つけるまでの彼女の原動力に迫る――。

広報部員として
第2のスタートを切る

――今は日本ユニシスの広報部の部員として働いていますが、引退後も日本ユニシスで働こうと考えた理由を教えてください。

23歳の時に大きなけがをして、1年半バドミントンができない時期がありました。そのときにいろいろな人たちと知り合い「バドミントンだけが人生じゃない。引退後のほうがもっと長い。自分の将来像を考えておくべき」という思いを抱きました。復帰後、五輪に選手として参加することができたものの、依然として引退後のビジョンをはっきりと描けずにいました。バドミントンは一般的にオフシーズンと呼ばれる期間がないので、落ち着いて考える時間がなかなか持てなかった側面もあります。

具体的な将来像を心に描けないまま引退を決意したときに、日本ユニシスの存在の大きさに改めて気づきました。これまで支えてくれた方々に何か貢献できないだろうか。さらには、この経験が自分にとっての学びにもなるはずだ、と考えて日本ユニシスに残ることに決めました。

引退後は広報部の所属となりました。それから程なく新型コロナの影響でテレワーク主体の働き方になり、社員の皆さんとリアルなコミュニケーションを図りにくい状況になりました。「せっかく広報部の一員になれたのに……」と残念に思っていた矢先、社名変更の発表を聞きました。私自身はバドミントン女子チームの1期生として入社し、広報部に入ったタイミングで社名変更。2度も日本ユニシスの大きな節目に立ち会えたのも何かのご縁だと思いました。この大きな節目に際して、より積極的に関わるため元バドミントン選手の経験を生かしながら、BIPROGYを世の中に広く知ってもらうきっかけをつくろうと思いました。豊洲フェスタの講演会もその一環としてチャレンジしました(編注:講演会の模様については後掲)。

――現役を引退するというのは大変な決断ですよね。

私は混合ダブルスの選手でしたが、2019年頃にペアを変えてから悔しい思いを重ねました。それまでは年上選手と組んでいたのに、新たに年下選手とペアになったことで自分の中の何かがズレてしまったのです。「お互いに話し合わなければ」と場もつくりました。しかし、意見を聞いているつもりなのに、焦りからか相手にプレッシャーを与えてしまう場面もあったと思います。ギクシャクして結果が出ず、周囲が敵ばかりに思えて……。焦燥感は募る一方でした。

この時期に、自分が試合をする姿を外側から見ている自分がいることに気づいたのです。試合中で余裕がないはずなのに、です。初めての感覚に驚きました。自分に違和感を覚えて、後ろ向きに引退を考えるようにもなりました。しかし、「逃げるのではなくて次のスタートを切る」と思いを改めて引退を決断しました。

私は現役時代から直感で動くタイプです。あまり深くは考えません。目の前のできること1つ1つに意志を持って取り組むことで、今まで道が開けてきました。例えば、私はもともとランニングが大嫌いで、これは引退するまで変わりませんでした。でも、周りに勝つためには苦手なことにこそ一番に取り組む。学生時代からそうやって向き合ってきました。走る前に散々文句を言っていても、一旦走り出したらひたすら走る。気づけば周りよりも速く走っている。そういうタイプなんです。引退するまで何をしたいのか決められませんでしたが、広報部で次の人生を踏み出したのですから、今回もこの機会を大切に、全力で走るだけだと思っています。

挑戦の隣にはいつも
日本ユニシスの支えがあった

写真:栗原文音
日本ユニシス株式会社
広報部PR室 栗原文音

――選手時代から現在までのキャリアを振り返った際に、栗原さんにとって日本ユニシスとはどういう存在でしたか。

9歳から高校を卒業するまでバドミントンに打ち込んできましたが、ずっと勝てないままでした。そんな私に声をかけてくれたのが、日本ユニシスです。結果が出ていない私に「世界を目指そう」という言葉をかけてくれたのです。感謝しかありません。

右膝をけがして休んでいたときにも、常に会社やチームがサポートしてくれました。当時住んでいた女子寮で知り合った社員の方たちにもよくしていただきました。現役を引退したときに「何か会社の役に立つことができないだろうか」と考えたのはこの方たちがきっかけです。「所属する会社にどんな方たちが働いているのか」という、チームでバドミントンをプレーするだけでは見えなかった部分を考えるようになったのがこのときでした。選手復帰後は、世界的な男女混合国別対抗戦である「スディルマンカップ」で日本チーム初の2位を獲得しました。全日本総合バドミントン選手権では混合ダブルスで優勝し、リオデジャネイロ五輪で5位入賞も果たしました。これらの経験も日本ユニシスの支えがあったからです。

引退のときにも日本ユニシスの温かさに気づかされることがありました。実は私は、世の中に向けて何も発表しないまま引退しようとしていました。しかし、会社側がホームページにきちんと引退の発表と私のメッセ―ジを残す場を設けてくれました。すると、それを読んだファンの皆さんからたくさんの応援メッセージが届くようになり、後悔しました。私のことをこんなにも応援してくれる人たちがいるのに、黙って去ろうとしていたわけです。なぜ自分のことしか考えていなかったのかと情けなくなりました。それに気づけたのも会社側の配慮があったから。この経験があったおかげで、「コミュニケーションの大切さ」を知ることができました。これは、広報の仕事にも通じるものがあります。

スポーツと社会の
架け橋になりたい

――ドラマのためのバドミントンの指導や、子どもたちへのレッスン、本日のような講演など、幅広い活動をされています。そこにはどんな思いがあるのでしょうか。

引退後の4月から考える時間ができて、「やはりスポーツが好きだ」と改めて実感し、これからも携わりたいと考えました。例えば、公園を散歩しているとたくさんの方がランニングをしています。多くの皆さんにとってもスポーツが身近で大切な存在になっていると感じます。この思いを胸に社会とスポーツをつなぐ活動にも日々積極的に取り組んでいます。

また、これから取り組みたいことの1つが、日本ユニシスのバドミントン選手たちと社員の皆さんの架け橋になることです。一人ひとりのストーリーを皆さんに知ってもらい、社員の方たちと選手たちの距離をより一層縮めるための活動です。それをさらに、BIPROGYが描く未来像を社会に広く伝える活動にもつなげたいと考えています。実は、現役選手たちはトレーニングスケジュールなどの兼ね合いから、他の社員の方たちとの接点があまりありません。同じ会社で応援してくれている皆さんとの接点が持てないのです。このままではもったいないと感じています。私は女子寮に入っていたので、けがをしてバドミントンを休んでいたときに、たまたま社員の方たちと親しくなる時間が持てました。しかし、今の現役選手たちにはそうした時間は多くないはずです。選手の中には、昔の私のように、なかなか結果が出せない方もいます。選手たちは、プライドなどが邪魔をして弱音を簡単には口に出せません。とても孤独な闘いです。そういう選手にスポットライトを当て、試合の勝ち負けだけではないそれぞれのストーリーを知ってもらうことで、選手たちの孤独感を埋めることができるかもしれません。逆に、選手が社員の皆さんの取り組みや思いを知ることで、自身を奮起させることもあると考えています。そのためには社員の方たち一人ひとりのストーリーもより多くの人に伝えていきたいと思います。

一人ひとりが輝ける
多様性のある会社づくりに貢献

――2022年4月に社名がBIPROGYに変わり、会社全体も変わる中で、どのようなキャリアを描いているのでしょうか。

BIPROGYという社名には多様性を大切にするというメッセージが込められています。私が自由に活動をさせてもらえるのも、日本ユニシスの多様性を尊重する風土のおかげだと思っています。一人ひとりを「人財」として大切にしてくれていると感じます。例えば、ドラマに協力することも受け入れてくれましたし、会社とは一見関係のないようなタレント的な活動も認めてくれるなど、個々の考えを尊重してくれる社風があります。だからこそ、周りの目を気にすることなく自分の軸をブレずに持つことができます。こうした恩恵や実感を持てるからこそ、私は多様性を大切にするBIPROGYの姿勢に共感を覚えます。

実は私は現役時代、SNSを封印していたんです。いろいろなことを書き込まれると精神的にもキツいからです。それだけ周囲の目を気にしていました。しかし、今は頻繁に投稿しています。元バドミントン五輪選手という強みを生かして、「栗原文音」という一人の人間を多くの方に知ってほしいという思いと共に日本ユニシスを広く知ってもらうきっかけにもなるからです。日本ユニシスは、私という個性を1つのブランドとして考えてくれています。“元五輪選手”という肩書からではなく、社員の一人ひとりの思いを尊重する同社の姿勢からそのように感じるからです。スポーツ選手は目標が周囲にとっても明確ですが、社員の方たちにも同じように個々の目指す未来があります。それを一人ひとりに伺い、広報部員として広く発信していきたいとも考えています。そのためにも、まずは身近なところからつながりを広げ、新たな試みにもチャレンジしていきたいです!

豊洲フェスタで講演会を開催
どんなときも諦めず、目標に向かって努力する大切さを語る

豊洲フェスタ 講演会の様子1

2021年10月23日、江東区豊洲文化センターで「第28回豊洲フェスタ(編注:豊洲周辺の企業・団体の協力によるイベントや参加型教室を開催する取り組み)」が開催され、栗原文音さんが講演しました。講演タイトルは「意志あるところに道は開ける」。この言葉はエイブラハム・リンカーン第16代米大統領の言葉で、栗原さんを支え続けてきたもの。けがをして戦線離脱を余儀なくされ途方に暮れていたときに、栗原さんのお母さまがその言葉の書かれた記事を送ってくれたそうです。

講演会場には親子連れを中心に20数名が集まりました。栗原さんの講演は自らの生い立ちから、バドミントン選手を目指したきっかけ、挫折をしても目標に向かって努力を続けてきた経験を通して、参加者の皆さんへメッセージを送りました。

豊洲フェスタ 講演会の様子2

バドミントンの混合ダブルスの選手として世界の舞台で戦い、2016年のリオデジャネイロ五輪で5位に入賞した栗原さん。しかし、その選手人生は決して順風満帆ではありませんでした。むしろ勝てないこと、悔しいこと、落ち込むことの連続で、それにも負けずに人一倍努力することで素晴らしい成績を残すことができました。

栗原さんが伝えたかったのは、意志を持って目標に挑戦することの大切さ。それが講演のタイトルに象徴されています。今、栗原さんは日本ユニシスの広報部員として活動し、新社名「BIPROGY」の認知を広めようとしています。この講演の最後でも社名の由来、目指すビジョンが語られました。

「BIPROGYという名前にはいろいろな意味が込められています。その1つが多様性。一人ひとりに違う色があって当たり前です。自分なりの目標を持ち、それに向かって頑張ってください」と栗原さんはエールを贈り、参加者の皆さんの目標や夢を書いた紙をボードに貼ったり、記念撮影に応じたりしながら交流を深めました。

プロフィール

栗原 文音(くりはら・あやね)

2008年4月、日本ユニシス実業団バドミントン部の1期生として入社。2011年シングルス女子日本代表としてドイツオープンにて準優勝。2012年にダブルスへ転向、2016年には混合ダブルス代表としてリオデジャネイロ五輪に出場し、5位入賞を果たす。2020年3月に現役を引退、同年4月より広報部PR室に在籍し、ブランディング業務に従事している。

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